決闘の日

4月13日は決闘の日です

4月13日は決闘の日

1612年この日、美作の浪人の宮本武蔵と細川家指南役の佐々木小次郎のあの有名な、現在の下関市彦島から約400m沖の関門海峡内にある小島「巌流島の決闘」が行われた日です。

巌流島

巌流島行の船

巌流島は、山口県下関市の「檀ノ浦の戦い」があった関門海峡のある無人島で、海岸からわずか250m程度の距離であります。また巌流島の公園には、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の像や記念碑が建立されています。他にも、海岸も散策できるよう整備されていて、現在では下関の観光名所となっています。

巌流島の本当の名称は「船島」

巌流島(船島)

巌流島は、山口県下関市にある関門海峡に浮かぶ島ですが、巌流島という呼び名は、地元人達が呼んでいる通称であり、正式名称は「船島」と呼ばれる島です。決闘の当日、約束の時間に遅れて島に着き、武蔵は船の櫓を削って作った長い木剣で小次郎を倒したというのは有名です。その敗者である「巌流」の使い手、佐々木小次郎の名がこの島に残されて「巌流島」と呼ばれるようになったといわれています。

宮本武蔵と佐々木小次郎

巌流島の決闘

宮本武蔵は、著書『五輪書』によると1584年に播磨国(現在の兵庫県)で生まれたとされています。彼は諸国を巡って厳しい修行を積み、六十回にも及ぶ他流試合を重ね、そのすべてに無敗を誇る剣豪として知られています。数々の試合を経た後、武蔵は小倉(現在の福岡県北九州市)に辿り着きます。

その地で歴史的に有名な巌流島の決闘が行われたのです。決闘当時、宮本武蔵の年齢はおよそ28歳と推定されています。

対する佐々木小次郎については、歴史的資料が少ないため謎が多く残りますが、小説家・吉川英治は小次郎を岩国出身の18歳の美青年として描いています。これはフィクションの要素が強いとされますが、近年の研究では、佐々木小次郎が豊前国(現在の福岡県東部)小倉藩出身であったという新説も提唱されています。

このように、巌流島の戦いは剣術史だけでなく、人物像や出身地を巡っても研究が続けられており、今なお多くの人々の関心を集めています。

佐々木小次郎とは?岩石城を拠点とした伝説の剣豪と「巌流」の由来

佐々木小次郎像

佐々木小次郎は、福岡県田川郡添田町にある岩石城(がんじゃくじょう)を拠点とした土豪・佐々木氏の一族とされる人物です。若き日には、彦山の山伏から兵法を学び、その後、自らの流派を「巌流(がんりゅう)」と名乗ったと伝えられています。

剣術の腕前が高く評価され、小次郎は小倉藩の剣術指南役にまで抜擢されたともいわれています。武勇に優れ、数々の試合において一度も敗北したことがないとされており、その実力は地元で語り継がれるほどのものでした。

江戸時代に記された『二天記』によれば、佐々木小次郎は地元の人々にとってまさに伝説の剣士、ヒーロー的存在であったとされています。

佐々木小次郎の史料が残っていない!?

宮本武蔵が主人公の映画など物語が多く、佐々木小次郎は、むしろ悪役としての存在でしかなようです。これも人格や偉業などの史料がほとんど残ってないのも理由の一つだと思います。しかし、これだけ語り継がれるほどの対決なのだからきっと、2人とも素晴らしい剣士だったのでしょう。


「決闘の日」に関するツイート集

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