7月6日は零戦(ゼロ戦)の日です
1939年7月6日は、「零式艦上戦闘機」一般的に知られているゼロ戦の試作器の試験飛行が始まった日です。このゼロ戦は、「小回りが利いて、飛行距離の長い戦闘機」という海軍の要求で「堀越二郎」が設計した戦闘機です。また、連合国側米英の戦闘機に対して優勢に戦ったことで、敵パイロットから「ゼロファイター」と呼ばれていたそうです。
零戦(ゼロ戦)
旧日本海軍のゼロ戦は、国産戦闘機では最多の1万機以上が造られた戦闘機です。そのデビューは日中戦争であり、その後勃発した太平洋戦争になると、開戦から終戦まで主力戦闘機として使用されました。そして、ゼロ戦の優れた格闘性能、大威力抜群の20mm機銃、長い距離を飛ぶことができる機能を備えていて当時では、「堀越技師の努力で実現不可能に近い旧日本海軍の要求性能を達成した」と語られているそうです。
設計者の堀越二郎
堀越二郎は、戦前から戦中に「名機」と呼ばれる戦闘機の数多く設計して、日本の航空機の水準を世界一にまで高めた設計者であることで有名です。世界でも「ゼロファイター」という通り名でアメリカ空軍を震えあがらせた「零式艦上戦闘機」、一般的に呼ばれているゼロ戦を設計したことでも有名です。その堀越技師は、1903年にライト兄弟の飛行機が初めて飛んだ年に、藤岡市にて生まれました。そして彼は、少年誌の物語を通して飛行機の魅力にとりつかれ、幼少期から明晰な頭脳を誇っていたそうです。
恐慌をきっかけに航空機の最先端技術を学ぶ
中学卒業後、東京の旧制第一高等学校(現在でいう東京大学)に進学し、その後は東京帝国大学の航空学科に進学します。大学を卒業して、三菱内燃機製造株式会社(現在の三菱重工)から声がかかります。しかし、当時の三菱は恐慌の影響で業績が悪く、帝大出の優秀な人材を獲得すると、育成によって挽回を図ろうとしたそうです。そして三菱は、堀越に「支度金約100万円相当」を託して彼を「ヨーロッパ」「アメリカ」に1年半派遣し、その時に航空機の最先端技術を学んだそうです。
「七試艦上戦闘機」からゼロ戦へ
その後、堀越が設計した「七試艦上戦闘機」が完成しますが、この機は実戦に採用されませんでした。しかし、 後にできた「九試艦上戦闘機」は、日本製で初の世界水準の戦闘機として、中国戦線で活躍しています。そしていよいよ堀越技師の最も強いこだわりのあった「機体の美しさと機能を両立させる」ということが目的で設計した「十二試艦上戦闘機」(後のゼロ戦)が完成します。
防衛重視の技術開発へ
現在では、日本が世界に誇る最先端技術は数多く生み出していますが、その基礎は、既にこの時代から作られていたのかと驚くばかりです。そして、唯一忘れてはならないのが、このゼロ戦でたくさんの犠牲者を出したってこと、またこれからは防衛重視「人を救うための技術開発」への方向性を維持することを願うばかりです。