12月14日は四十七士討ち入りの日です
1702年12月14日は、日本史において有名な「赤穂浪士」47人が江戸の本所松坂町にあった吉良邸に討ち入り、主君である浅野内匠頭の仇討ちを果たした歴史的な日です。
この出来事は「忠臣蔵」として広く知られ、後世の文学や演劇、映画にも数多く取り上げられています。赤穂浪士の討ち入りは、日本の武士道精神や義理を象徴するエピソードとして語り継がれています。
赤穂浪士
1701(元禄14)年、江戸城内で赤穂藩主の浅野内匠頭(たくみのかみ)が 、吉良上野介(こうずけのすけ)に切りつけた罪で、切腹に処せられ、そして浅野家は断絶しました。その後の元禄15年12月14日、家臣の「大石内蔵助」ら47人(最初は48人だったが、1人は脱退した)が江戸本所の吉良邸に討ち入り、主君の敵討ちを果たしています。
赤穂事件が物語「忠臣蔵」
この赤穂事件をもとに生まれた物語が「忠臣蔵」であり、人形浄瑠璃や歌舞伎などに脚色されています。そして、今でも年末の恒例のテレビドラマなどの題材として人気があります。
大石内蔵助
大石内蔵助は、忠臣蔵の主役として指導者の理想像になっていて、山鹿素行に軍学を学んだといわれています。1701年に藩主浅野長矩が切腹となり、領地が没収されると家中を統率して浅野家再興を図ります。そして、その望みが絶たれた翌年、赤穂義士の首領として主君浅野長矩の敵である吉良義央を討ち果たしました。自身は、幕法違反で肥後藩預けとなり切腹したが、浅野長矩の弟、大学が五百石の旗本になっており、浅野家はある意味再興を実現しています。
名言、敵を欺くにはまず、味方から
大石内蔵助の戦略で有名な、「敵を欺くには先ず味方から」という言葉があります。これは、戦争だけでなく、現在のビジネスにも通用する名言でもあります。分かりやすく言えば、味方と企てた優れた戦略も、その中から一人でも裏切り者がいて、外部の人間に漏らしたらその戦略も意味が無くなる。したがって、重大な事は最小限の身内以外は、ギリギリまで秘めておくと言うものです。なんか、奥深いものがありますね。