8月23日は「白虎隊自刃の日」です
慶応四年(1868年)8月23日、会津藩に組織されていた白虎隊の多くが、会津若松城を臨む飯盛山で自刃。白虎隊は、会津戦争において会津藩が組織した部隊で、幕末維新の一環として活動しました。彼らの犠牲は、日本の歴史において象徴的な出来事となっています。
白虎隊
白虎隊(びゃっこたい)は、戊辰戦争(ぼしんせんそう)の際に会津藩隊士の子息で会津藩が組織した武家男子を集めた軍隊。この部隊に志願した15歳で出陣した者や、13歳の少年も加わっていました。彼らは若幼の区別なく、戦局に臨んでいます。白虎隊は会津藩の敗色が濃くなる中で、飯盛山での自刃で知られていますが、戦死や自刃をしなかった隊士約290人は明治維新後を生きたとされています。
戊辰戦争
戊辰戦争は、1868年~1869年にかけて鳥羽・伏見の戦い(京都府京都市南区・伏見区で1868年1月27日(慶応4年1月3日)に起こりました)に始まり、旧幕府佐幕派諸藩軍と朝廷側の倒幕軍との内戦です。
旧幕府軍と会津・桑名両藩軍
小御所会議に挑発されて行動を起こした旧幕府軍と会津・桑名両藩軍(1868年(慶応4年)1月3日に勃発した内乱「戊辰戦争」において、旧幕府軍の先鋒として大坂から京都へ向かいました。
鳥羽・伏見の戦いで新政府軍と激突
会津軍は伏見街道、桑名軍は鳥羽街道を進み、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍と激突しました。しかし、装備に優る新政府軍は幕府軍を1日で退却させ、30日には戦闘が終了しました)が、鳥羽・伏見の戦で敗走すると倒幕派は、朝廷の徳川慶喜追討令を受け、東征軍を江戸に送った。
英国公使パークスの圧力によって江戸総攻撃は中止
慶喜は、慎んで従う態度をとり、英国公使パークス(幕末から明治にかけて駐在していた駐日公使。)の圧力もあって江戸総攻撃は中止されたが、江戸開城後多くの旧幕臣が脱走し関東各地で激しく抗戦。
奥羽越列藩同盟を結成して倒幕派に対抗
会津を中核とする東北諸藩は、5月奥羽列藩同盟(戊辰戦争中、『陸奥国(奥州)』『出羽国(羽州)』『越後国(越州)』の各藩が、輪王寺宮・北白川宮能久親王(北白川宮能久親王(1847~1895年〈)は、日本の皇族であり、北白川宮の第2代当主)を盟主とし、新政府の圧力に対抗するために結成された同盟)さらに奥羽越列藩同盟を結成して倒幕派に対抗。
長岡落城で破れて会津落城でようやく降伏
7月長岡落城で北越戦争に破れ、9月会津落城に及んでようやく降伏(会津戦争)。鳥羽・伏見の戦以来局外中立を宣していた諸外国も中立を解除して形勢はほぼ落着した。1869年5月五稜郭の戦で榎本武揚軍が降伏して戦争は終結しました。
会津藩はフランス式軍制を採用
会津藩は鳥羽伏見の戦い後、フランス式軍制を採用し、精神論ではなく戦力に重きをおいて年齢別に玄武隊、青龍隊、朱雀隊、白虎隊を編成。この隊は、藩校日新館で学んだ16~17歳の少年たちで構成され、当初は戦闘に参加する予定はありませんでした。
繰り返される若者の出兵
しかし、その後に戦場が会津に移り、藩主松平容保は白虎隊に出陣を命じられ、彼らは戸ノ口原の戦いで敗北し、飯盛山で自刃しています。この悲劇は、戦争の無意味さと教育の大切さを伝え続けています。
また、この数十年後の日本も太平洋戦争という戦場で特攻隊として多くの若者が、無意味な戦争によって、巻き込まれて亡くなっています。戦後70年過ぎても平和を維持できている今こそ、若者が立ち上がり、二度とこのような惨劇が繰り返されないような世界に変えていくことを、願いたいと思います。