「アツモリソウ」

基本情報
- 科名:ラン科
- 属名:アツモリソウ属(Cypripedium)
- 学名:Cypripedium macranthos(代表的な種)
- 分類:多年草(地生ラン)
- 原産地:日本(北海道~本州の寒冷地)、東アジア
- 生育環境:山地の草原・落葉樹林の半日陰、冷涼で湿り気のある場所
- 開花時期:5~6月
- 絶滅危惧種:環境省レッドリストで絶滅危惧IB類に指定
- 特徴的な構造:袋状の「唇弁」が目立つ、いわゆる“レディススリッパ”型のラン
アツモリソウについて

特徴
- **袋状の花(唇弁)**が特徴で、膨らんだ花姿がとても印象的。
- 色は赤紫、ピンク系が多く、白や淡緑色の種・変種もある。
- 地面に根を張って育つ「地生ラン」で、湿り気のある冷涼な環境を好む。
- 栽培が非常に難しく、環境の変化に敏感。野生個体は減少。
- 花は大きく、横幅5〜8cmほどで存在感がある。
- 名前は源平合戦の武将「平敦盛」にちなむとされ、“武将の母衣(ほろ)”を思わせる花形に由来。
花言葉:「君を忘れない」

由来
- アツモリソウは、源平合戦の若き武将・平敦盛の名を冠した花。
- 17歳で戦死した敦盛を弔う語りや伝説が多く、
→ 「悲しみの中で忘れられない者」
→ 「心に残り続ける想い」
というイメージが生まれた。 - 山奥にひっそり咲く姿が、
→ “静かに誰かを想い続けているよう”
という印象を与えるため。 - こうした背景が重なり、
「君を忘れない」「追憶」「あなたを忘れない」
などの花言葉が付けられた。
「山影に咲くもの」

山の奥、誰も通らない細い道を、凪(なぎ)はゆっくりと歩いていた。六月の風はまだ冷たく、草木の匂いに混じって、どこか懐かしい湿り気を運んでくる。
その匂いを吸い込みながら、凪は胸の奥で小さく名前を呼んだ。
――アツモリソウ。
彼と最後に会ったのは、まだ春の名残が町に漂っていた頃だった。彼は笑っていた。何もかも抱えてしまう癖のあるくせに、いつも凪には弱音を見せないままだった。
「大丈夫だよ。……たぶん」
その“たぶん”に、もっと深い意味があることを凪は分かっていた。けれど聞けなかった。聞けば、なにか決定的な線を引いてしまう気がして。

それきり、敦盛は消息を絶った。
行方不明、という曖昧な言葉だけが残され、彼自身を示すものはどこにもなかった。警察の捜索も、家族の嘆きも、時間の流れさえも、凪の中の空白を埋めてはくれなかった。
そのとき、彼の祖母がぽつりと言った。
「敦盛はね、春になると必ず山へ行っていたのよ。あの子が好きだった花があるの」
祖母の話を頼りに、凪はひとりで山へ向かった。
手がかりと言うにはあまりに頼りない。けれど他にできることもないまま、今日に至った。
しばらく歩くと、木々のすき間から薄い光が差し込む、小さな草地に出た。
凪は息をのみ、足を止めた。

そこに――咲いていた。
淡い紅の袋のような花。ひっそりと、風の音にも紛れそうに、けれど確かにその場を照らすように。
アツモリソウ。
名の由来は平敦盛。若くして戦で命を落とした武将。その名を背負う花は、昔から「君を忘れない」と語り継がれてきた。
失われたものへの想い、消えない痛み、静かな祈り――そんな感情を深く宿す花。
凪はゆっくりと膝をつき、花に触れないようそっと顔を寄せた。
「……どうして、こんなところに」
けれど、問いは風に溶けて消えた。
ふいに、胸の奥で鈍い音がした。
敦盛が山へ向かっていた理由。
春になると思い出したように姿を消した日々。

もしかすると、この花のためだったのかもしれない。
ただ見たくて、ただ確かめたくて。
誰にも言わず、静かに自分を保つために。
凪は思わず笑った。泣きながら。
「君を忘れない、か……。ずるいよ、その花」
だって、忘れられるわけがなかった。
敦盛がいなくなったあの日から、凪は何度も思い返していた。
笑顔も、沈黙も、交わした短い言葉のひとつひとつも。
まるで時間が凪の中だけで止まってしまったかのように。
アツモリソウは、風に揺れながら小さな影を地面に落としている。
まるでそこに、誰かが腰かけているみたいに。
凪を見守るように。
「ねえ、敦盛。
君はここで、何を思っていたの?」
答えはない。
あるはずがない。
けれど、凪は小さく息を吐いた。
胸の奥で、長い間固まっていた何かが、少しだけほどけていく。
忘れないという言葉は、苦しみを抱え続けることではない。
ただ、その人を想いながら、自分の時間をまた歩き始めることだ。
そう思えた。
花のそばに、ひとつだけ影が揺れた。
風。
あるいは――記憶のなかの、彼。
凪は立ち上がった。
「また来るよ。……ちゃんと前に進むから」
アツモリソウは何も言わない。
ただ山の静けさの中で、ひっそりと咲き続けている。
まるで、永遠に。
そして静かに告げるように。
――君を忘れない、と。