6月12日はアンネの日記の日です
1942年6月12日、ユダヤ系ドイツ人少女のアンネ・フランクが「アンネの日記」を書き始めました。アンネの家族は、1933年にナチスが政権を取るとナチ体制の迫害に逃れようと、一家でオランダ、アムステルダムに移住しました。この「アンネの日記」は、1942年6月にアンネが13歳の誕生日にお父さんから日記をプレゼントされたところから始まります。日記は、1942年6月12日~1944年8月1日までの約2年間が記録されているそうです。
「アンネ・フランク」とナチス政権
アンネ・フランクは、1929年6月12日にドイツのフランクフルトで生まれました。そのアンネには3歳上の勉強熱心で聡明な姉のマルゴットがいました。この時期のドイツは、世界恐慌などの影響で景気が悪化し、人々は貧しい生活をしていたそうです。またその頃アドルフ・ヒトラーは、その勢力を伸ばして支配地域をどんどん伸ばしていました。ヒトラーは、ユダヤ人を憎んでいて、ドイツが抱える不況問題の責任をユダヤ人に濡れ衣を着せていたといいます。そしてヒトラーは当時、ドイツに広まっていた反ユダヤ感情を利用したといわれています。
ナチス・ドイツのオランダ侵攻
1939年9月1日、アンネが10歳の時にナチス軍がポーランドへ侵攻、第2次世界大戦が始まります。その後、1940年5月10日にナチス軍はオランダにも侵攻し、その5日後には降伏しています。その後ドイツ軍は徐々にユダヤ人の生活がしにくくなる法律や条例を導入していったそうです。これらの規則で、アンネの行動範囲が規制されていきます。また、ユダヤ人が会社を持つことも禁止されてアンネの父も会社を失い、アンネを始め、ユダヤ人の子供達は全て学校に行かなければならなくなりました。
一家でオランダ、アムステルダムに移住
ナチスのユダヤ人迫害は更に進み、ユダヤ人は「ユダヤの星」(「ダビデの星」あるいは「ユダヤの星」と呼ばれ、古代ギリシャ時代よりユダヤ教のシンボル)を着けることが義務付けられます。そして、「ユダヤ人はオランダから出て行かなければいけない」という噂が流れます。1942年7月5日にマルゴット(アンネの姉)にナチス・ドイツの労働キャンプへの召集令状が届きました。しかし、両親はこの召集が労働のためと信じず、翌日から隠れることにして 隠れ家(アムステルダム市プリンセン運河263番地にあったオットーの会社の後ろ)に移動し、潜伏することになります。
アンネ、日記を書く
アンネは、隠れ家へ移動する前に13歳の誕生日を迎えた時、プレゼントの日記帳をもらい、隠れ家で生活した2年の間、アンネは隠れ家での出来事やアンネが感じたことなどを日記に書き留めていました。また、それだけではなく小説などを書き始めたり、自分が読んだ本から抜き出した一節を書き、そのことが、アンネ自身の大きな慰めとなったのでした。
その後、アンネは日記の清書を書き始めましたが、その作業が終了する前の1944年8月4日、アンネと隠れ家の住人は警察に発見されて逮捕されています。アンネは、最終的の送られたベルゲン・ベルセン収容所で、食料はほとんど与えられず、環境も劣悪であるがためにアンネもマルゴットも発疹チフスにかかって、1945年2月に亡くなります。
この「アンネの日記」は、反ユダヤ感情とドイツの不景気から作られた一人の少女書き綴った悲劇の記録となります。
戦争は不寛容がきっかけに
人は、生まれ持った性格や育った環境によって、それぞれ思想やこだわりが生まれます。しかし、そのこだわりが宗教の違いや人種差別などにより、さらに波及して派閥ができ、対立が始まります。すると、相手に対して不寛容になって、自分の領域に入ると攻撃してしまい、そこから争いが始まります。
今や世界中で、人類は全て平等だということをネットなどを利用して拡散しています。しかし、それが当たり前の世の中へと変えるためには、まず全ての人に寛容さを持つためにどう働きかけたら良いかを考えることから始めないと先へは進まないでしょうね!人類の永遠の課題です。