7月14日はペリー上陸記念日です

1853年7月14日(旧暦6年6月9日)、アメリカの黒船艦隊4隻が江戸湾の浦賀沖に現れ、ペリー提督が久里浜に上陸し、将軍への親書を渡しました。その時の江戸は鎖国、当然異国からの黒い船に街は大混乱です。その時の様子が、蒸気船をお茶の銘柄・上喜撰にかけて、「太平のねむりをさます上喜撰たった四はいで夜もねられず」と狂歌に詠まれるほどだったといわれています。
- 2度のペリー来航で鎖国が終わった!
- マシュー・ペリー提督
- 日本の開国までの経緯
- 「ジョン・オーリック」の代わりにペリーが出航
- まずは沖縄琉球に向う
- 黒船来航はここから始まる
- 「ペリー上陸記念日」に関するツイート集
2度のペリー来航で鎖国が終わった!
ペリー(マシュー・ペリー提督)は、1年後に新書の返事を聞くために再び来航すると告げて帰国します。そこで幕府は、翌年のペリー再来に備えて品川沖に6基の砲台(台場)を完成させましたが、翌年の1854年に来航したペリーとの間で「日米和親条約」を結び、200年続いた鎖国がこの時、ついに終わりを告げました。
この「日米和親条約」を結んだことをきっかけとし、下田と箱館を開港、8月にはイギリスと日英和親条約、12月にはロシア帝国と日露和親条約がそれぞれ締結され、鎖国状態は完全に崩壊することとなります。また、このペリーによる「日米和親条約」が結ばれるまでに「ロシア帝国」「イギリス」「フランス」「アメリカ合衆国」などの艦船が日本に来航し、開国を求める交渉を行っていますが、その多くは拒否したそうです。
マシュー・ペリー提督
ペリー提督は、1794年4月10日にロードアイランド州のニューポートにてアメリカ海軍私掠船長の「クリストファー・レイモンド・ペリー」と、妻セーラの3男として生まれました。その後に彼は、アメリカ海軍の軍人となり、鎖国状態の日本に来航して開国を要求したことで知られていますが、日本の文書には「ペルリ」と記載されていたそうです。ちなみに彼の正式名は、「マシュー・カルブレイス・ペリー」であり、兄の「オリバー・ハザード・ペリー」は英雄として知られています。
日本の開国までの経緯

日本の開国は、19世紀中頃の国際情勢の変化とアメリカの外交政策によって大きく影響を受けました。以下にその経緯を詳しく解説します。
ペリーの計画と準備
- ペリーの提案: 1851年1月、アメリカ海軍のマシュー・ペリーは、海軍長官ウィリアム・アレクサンダー・グラハムに日本を遠征する基本計画を提出しました。
- 日本に関する研究: ペリーは、シーボルトの著書『日本』など約40冊の日本に関する書籍を読み、日本の開国を実現するための方法を模索していました。
アメリカの外交政策
- フィルモア大統領の指示: 当時のアメリカ大統領、フィルモアは、東インド艦隊司令官の代将ジョン・オーリックに日本の開国と通商関係を結ぶ任務を託していました。
- サスケハナの出発: 1851年6月8日、蒸気フリゲート「サスケハナ」が東インド艦隊の旗艦としてアジアに向けて出発しました。この艦名は、アメリカ原住民の言葉で「広く深い川」を意味します。
トラブルとペリーの任命
- オーリックの解任: サスケハナの艦長であるインマン海軍大佐とのトラブルにより、ジョン・オーリックは広東に到着後、病気を理由に解任されました。
- ペリーの就任: 1852年2月、マシュー・ペリーが東インド艦隊の代将に任命され、日本への遠征が具体化していきました。
「ジョン・オーリック」の代わりにペリーが出航

そして「ペリー」は、ミラード・フィルモア大統領の親書を持ち、日本に開国を要求するためにバージニア州ハンプトン・ローズから蒸気フリゲート艦ミシシッピ号に乗船して、1852年11月24日に出航します。その後、大西洋を渡り、マデイラ諸島⇒ケープタウン⇒モーリシャス⇒セイロン⇒シンガポール⇒マカオから香港へと航海します。そして、1853年5月4日には上海に到着し、「サスケハナ」などの艦隊と合流します。
サスケハナの琉球訪問

1852年5月17日、アメリカの蒸気フリゲート「サスケハナ」を旗艦として、ペリーは沖縄の琉球に向かいました。琉球には5月26日に到着し、那覇沖に停泊しました。
首里城への訪問打診
- 訪問の打診: ペリーは首里城への訪問を打診しましたが、琉球王国はこれを拒否しました。
- 武装した海兵隊の派遣: 琉球王国の拒否に対して、ペリーは武装した海兵隊を率いて首里城へ向かうことを決定しました。
琉球王国との交渉
- 会見の実現: 琉球王国は「兵と武器の持ち込みは拒否するが、会見には応じる」との姿勢を示しました。これにより、武装解除されたペリーと彼の士官たちが首里城に入城することができました。
- 大統領親書の手渡し: 琉球王国側は、アメリカ大統領からの親書をペリーに手渡しました。また、酒と料理でもてなされ、ペリーは感謝の意を表しました。
高官の招待
ペリーは琉球の高官を旗艦「サスケハナ」に招待し、料理を振る舞われたと伝えられています。この交流は、アメリカと琉球王国の関係を深める重要な一歩となりました。
黒船来航はここから始まる

ペリーはその後、艦隊の一部を那覇に残し、4隻の軍艦を引き連れ小笠原諸島を探検します。そして、6月23日に一度琉球へ戻りますが、やはり一部の艦隊を残したまま、7月2日に日本の浦賀へ向けて出航しました。そして4隻のペリー艦隊は1853年6月3日に浦賀に入港します。
ここから、あの日本史で必ず学ぶほど、誰もが知っている黒船来航が始まります。この事件があったからこそ、世界中の素晴らしい品々が次々と持ち込まれ、それを日本独自の改良を重ね、より良いものを作ろうという努力が始まったのでしょう。こうした経緯が、我々にとって誇らしい国へと変えてくれた原点なのだと思っています。