テレワーク・デイ

7月23日はテレワーク・デイです

テレワーク・デイ

2017年から、政府は働き方改革の一環で2020年東京オリンピックの開会式の7月24日を、「テレワーク・デイ」としました。この日は、2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けた活動を改革すべく職場は時間や場所に縛られず、どこでも仕事ができる働き方を推進するための国民運動です。ちなみに東京オリンピックの開会式は、新型コロナ感染拡大を防止するために2021年7月23日に変更されました。

テレワーク

テレワークとは、簡単に言うと情報通信技術(ICT)を活用して場所や時間に縛られない働き方のことを指します。またテレワークは、働く場所「在宅勤務」や「モバイルワーク、サテライトオフィス(企業の本拠地などから離れた場所に設置する小規模なオフィス)」や「コワーキングスペース」(場所の縛りがない環境で働いている人たちが使用する共有スペース)などの施設利用型テレワーク、リゾート地で行うワーケーションも含めた総称をテレワークといいます。

「テレワーク・デイ」実施の効果

2017年に「テレワーク・デイ」を実施した7月24日は、約950団体(6万3000人)、2018年は7月23日~27日の5日間実施で1682団体(30万人以上)が参加しています。そして、2019年は7月22日~9月6日までの約1か月を「テレワーク・デイズ2019」としたテレワークを行う事を一斉に呼びかけ、それに2887団体(約68万人)が参加したそうです。今回、この「テレワーク・デイ」の実施によるテレワークの有効活用で「介護が必要な家族がいる社員」や「育児を抱える社員」、さらには通勤時間帯の移動が困難な高齢者や身体障がい者などの活躍も可能になります。働く時間や場所については、個人の判断を尊重し決定権を与えると、より多様な労働者を有効に活用できる効果があります。

テレワークのデメリット

これまでテレワークのメリットを紹介しましたが、そもそもテレワークを勧めることができない業種はたくさん存在します。例えば、工場などの生産工程で特殊な機械や大型機材などが必要な職種、介護職や看護職などは、実際に患者や使用者と接することが重要な任務となる現場での作業が必要な業種、清掃業や修理業など、お客様と実際に会って現場で行わなければならないサービス業などがこれです。そしてもう1つ、テレワークをするにあたり、会社の重要な秘密書類を自宅に持ち帰る場合のセキュリティ上の危険性です。また、自宅で仕事をしている時間の残業代や労働時間の管理が非常に困難でしょう。

テレワークによる人流抑制

昨年2020年から今年2021年にかけて、新型コロナウイルス感染拡大防止のために、政府は人流を抑制するために様々な対策を行ってきたようです。その中の1つがこの「テレワーク」の徹底です。「テレワーク・デイ」が制定された当初は、まだこの施策に踏み出す企業は少なかったようですが、政府が今回「出勤者数の削減(テレワーク等の徹底)について」などを呼びかけ、「テレワーク」を行う企業は急激に増えたものと思われます。こうして、きっかけはどうであれ、今後はさらに世界規模で広がるネット社会に後れを取らないような、いや、これまで以上の体制を作られていくことを期待しています。

スポーツの日

7月23日はスポーツの日です

スポーツの日

元々は、1964年10月10日に東京オリンピックの開会式を記念して、1966年に国民の祝日「体育の日」として10月10日に制定されていました。それを祝日法の改正で「ハッピーマンデー制度」が適用、2000年から「体育の日」は10月の第2月曜日になり、2020年では東京オリンピックの開会式が予定されていた7月24日に日付が変更され、「スポーツの日」に呼び名も変更されました。しかし、今回の2020年の東京五輪は、新型コロナウイルスの世界的流行を受けて、開催が延期され、今年の2021年7月23日にオリンピック開催日に合わせて祝日「スポーツの日」になったということです。

「スポーツの日」の趣旨

本来は10月の第2月曜日であり、「スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培(つちか)うとともに、健康で活力ある社会の実現を願う」という趣旨とした国民の祝日です。1966年「国民の祝日に関する法律」の改正により「建国記念の日」、「敬老の日」とともに「体育の日」として追加制定されています。これが制定される前は、10月の第1土曜日が「スポーツの日」だったのですが、冒頭で紹介した1964年の東京オリンピック大会開会式を記念した10月10日が「体育の日」となりました。しかし、その後の法改正で2000年から10月の第2月曜日に変更され、さらに2020年には再び「スポーツの日」と名称を変えています。この日は各地で、体力検定や地域の運動会など関係行事が行われています。

「スポーツの日」の移動、なぜ?

2021年に開催される東京オリンピックとパラリンピックのために、政府は祝日「海の日」「スポーツの日」「山の日」を変更しています。その理由は、開催期間中のアスリートや観客等の円滑な輸送、経済活動や市民生活の共存を図るためだそうです。そこで今回、オリンピック開会式の7月23日前後を4連休、オリンピック閉会式の8月8日前後を3連休としています。こうすることによって、東京中心部の混雑緩和が見込まれるとみています。

「スポーツの日」、東京2020オリンピック開会式

いよいよ2021年の今日、2020年7月24日の「スポーツの日」から延期されたオリンピックの開会式が行われます。実際は、もうすでに試合が始まっている種目がありますが。ここまで来るのに新型コロナウイルスの感染拡大を懸念して、中止にするか延期にするか、さらには女性蔑視発言などの問題がありました。そして今日、ようやく無観客ではありますが開会式が行われるようになったようです。本来の目的であった「復興五輪」、2020年東京オリンピック・パラリンピックの理念の一つとして、大会招致の時からの目標が達成できるように、我々は陰ながら応援したいと思います。

ディスコの日

7月22日はディスコの日です

ディスコの日

1978年7月22日、ジョン・トラボルタ主演の映画「サタデー・ナイト・フィーバー」が、日本で初めて公開されました。そして、MCとミキシングの両方をこなすDISCO DJのスペシャリスト「DJオッシー」が、この魅力をより多くの人に知ってもらうことが目的で、この日を「ディスコの日」として制定しました。また、この「ディスコ」は、レコードで音楽を流してダンスを踊る空間として、1970年代から若者の人気を集めてきました。

ディスコの歴史

社交場としてのダンスホールは、実はかなり昔からあったそうです。しかし、第二次世界大戦中に生バンド演奏が困難になり、その状況に困ったナイトクラブがバンド演奏の代わりにレコードを流しました。それが、ディスコ形態の始まりとされています。1942年3月、パリに「ラ・ディスコティーク」と呼ばれるナイトクラブが開店します。そして、第二次世界大戦後の1947年8月、やはりパリで「ウイスキー・ア・ゴーゴー」をオープンします。アメリカ人の「エルマー・ヴァレンタイン」は、フランス旅行中にこのナイトクラブを訪れ、刺激を受けました。

世界的なゴーゴーブームの原点がスタート!

そして、1964年1月にエルマーは、ロサンゼルス・サンセット大通りにアメリカ版「ウイスキー・ア・ゴーゴー」をオープンします。このことから、生バンド演奏と女性DJ、レコード演奏を併用したことが評判を呼び、世界的なゴーゴーブームの原点となります。当時のアメリカ・ニューヨークでも「ペパーミントラウンジ」などナイトクラブが存在していましたが、当時はライブ演奏とダンスホールが基本だったそうですが、1968年には「フランシス・グラッソ」が「DJによるナイトクラブ」を提案し、ニューヨークに「サルヴェイションⅡ」をオープンします。

ニューヨークで一気に広がり、ディスコの原型が完成する

さらに、1969年になると「サンクチュアリ」をはじめ複数の店が続々とオープンし、70年代ディスコの基本形のようなものがを確立します。これらのお店はロフトを利用したり、教会を改装するなど今まであったナイトクラブのやり方にこだわらない空間だったそうです。またそこは、最新の流行音楽のレコードを流し、DJによる個性的なプレイやミキシングなども行っていたといいます。

ジェームス・ブラウンやクール&ザ・ギャングが登場!

Doing It To Death – James Brown

その後は、ジェームス・ブラウンクール&ザ・ギャングなどが人気を集め、初期ディスコ音楽の主流となります。そして、1970年代になるとニューヨークに「ニューヨークニューヨーク」や「スタジオ54」といった巨大ディスコがオープンします。その中でも1977年にオープンした「スタジオ54」はファッショナブルなセレブが集うニューヨークならではのナイトクラブとなっています。

40代~50代の客中心にディスコが復活!?

六本木ヴェルファーレの閉店後、日本のディスコの灯は一旦途絶えますが、2010年11月に「マハラジャ六本木」が復活。それをきっかけに、バブル期に青春を過ごした40代~50代の客が再び人気を集め、大阪や名古屋、祇園や仙台も続々と復活したそうです。さらにディスコの復活は、ホテル業界に刺激を与えて「グランドハイアット東京」で2005年末からイベントを実施しているようです。私は、バブル崩壊後に大人として社会に出てきた人間です。やはり当時の日本は、敗戦のどん底から這い上がり、経済大国となると輝かしい実績を挙げ、誰もが誇らしげにしているように思えました。これも若者が、がむしゃらに仕事と向き合い、そのストレスをディスコなどで発散しながら突っ走った結果なのでしょう。

月面着陸の日

7月20日は月面着陸の日です

月面着陸の日

1969年7月20日、アポロ11号が月面の「静かの海」(月の赤道よりやや北に位置する東経 18°から 43°付近の平坦な部分)に着陸し、人類が初めて月面に降り立ちました。この時アポロ11号のアームストロング船長は、「この一歩は小さいが、人類にとっては大きな飛躍である」とのメッセージを地球に送っています。そして、このことがきっかけになり、この日が「月面着陸の日」という記念日になっています。

アポロ11号

アポロ11号月面着陸50年

アポロ11号は、人類で初めて月着陸に成功したアメリカの宇宙船です。その乗組員は、船長の 「ニール・アームストロング」、司令船 (コロンビア)の パイロットの「マイケル・コリンズ空軍中佐」、月着陸船 (イーグル)の パイロット「バズ・オルドリン空軍大佐」でした。 ロケットが打ち上げられたのは、ケネディ宇宙センターからアメリカのサターンV型ロケットが1969年7月 16日午前9時 32分に打ち上げられました。

ついに月に着陸!

アポロ11号の着陸付近

その後、20日午後4時 17分 39秒に月面「静かの海」といわれる部分、サビンロクレータ南西約 10kmに着陸しました。そして最初にアームストロング船長が月面に第一歩を踏出したのがこの日の 10時 56分 19秒でした。その後に続いて「バズ・オルドリン空軍大佐」が月に降りました。この2人は、「地球から人間、ここに月面への第一歩を印、 1969年7月に我々人類の代表として、無事にここに到達した」などと刻まれた「金属板や地震計」、「太陽風測定装置」、「レーザー光線反射装置」を設置しました。

月面には21時間36分の滞在

結局、この月面活動の2時間 32分を含め、月面には21時間 36分の滞在をしたそうです。そうして、その後 22kgの石を採取すると21日午後1時 54分に月を離陸し母船とドッキングします。そして、22日午前0時 55分月のまわりの軌道を離れて地球に帰還しました。地球に近づくと機械船を切捨て、司令船だけになると大気圏に再突入します。7月 24日午後0時 51分ハワイ南西沖の太平洋上に無事に着水し、任務を完了しました。

2030年までに日本人も月面着陸する!?

人類初の月面着陸から50年経ちましたが、NASAは月面再訪計画としてアルテミス計画を発表しています。アルテミス計画は、2024年に米国人宇宙飛行士を月面着陸させる計画だそうです。また、このアルテミス計画には日本も参加表明しています。そして、その中かで日本人の宇宙飛行士が、月面着陸する計画も含まれた月探査の協力を行うという共同声明を日米両政府で発表されています。そうなると、今後10年も経たないうちに日本人の宇宙飛行士が初の月面着陸を実現させる日が来るということです。

マッターホルン北壁登頂の日

7月19日はマッターホルン北壁登頂の日です

マッターホルン北壁登頂の日

1967年7月19日、東京女子医大山岳部の「今井通子」と「若山美子」の2人が、マッターホルンの北壁からの登頂に成功しました。この時、まさに女性だけのパーティーでの北壁登攀は世界初のことでした。実はこの登山家「今井通子」は、東京都出身の医師でもあり、女性初のアルプス三大北壁(マッターホルン北壁、アイガー北壁、グランド・ジョラス北壁のこと)登攀、そのアイガーとグランドジョラスの北壁登攀にも成功しました。そしてこの方の本業は、東京女子医科大学泌尿器科の非常勤講師、日本泌尿器科学会指導医・専門医だそうです。

マッターホルン北壁を登攀

「マッターホルン北壁を登攀」の登攀というのは、クライミングとほぼ同じ意味を持つ、岩壁をよじ登って進む登山の一種です。また、通常の登山と比べるとずっと体力や筋力を必要とされる命がけのことであり、一歩間違えると崖から真っ逆さまに落ちてしまうほど危険な登山になります。現在でも、日本は多くのクライミング施設がありますが、彼女たちの活躍する前は女性のクライマーなんてありえない時代背景だったようです。

今井通子と若山美子

「今井通子」さんは、1942年に東京で眼科医の両親のもとで誕生します。そこで様々なことを体験させる教育方針のもとに育ち、登山に興味を持ったのは中学校の頃からだそうです。そして、東京女子医大に入学後、山岳部に入部し積極的に活動しています。「若山美子」さんは、幼少期にソ連侵攻、高校時代には父の会社の倒産を経験しています。それが原因で進学を諦め、就職した会社の山岳部で登山に出会いました。また、後に彫刻作品も残すほどの手先の器用さから、そちら方面でも才能を開花させています。

女性初、アルプス三大北壁登攀を達成

今井さんの両親は、彼女を医者になることを願っていて、命を落とす可能性のある危険な「東京女子医科大学山岳部欧州アルプス遠征隊」のヨーロッパ遠征に猛反対します。しかし、女性初の登攀を成功させたいという2人の思いは揺らがなかったそうです。そして、ついに1967年7月19日、40時間以上かけて先頭を交代しながら2人の女性だけのパーティでは初のアルプス三大北壁の登攀を成し遂げました。このように意志の強い女性が次々と現れ、次々と偉業を成し遂げたからこそ、誰でも様々なチャレンジが自由にできる世の中に変わってきたのでしょう。

光化学スモッグの日

7月18日は光化学スモッグの日です

光化学スモッグの日

1970年の7月18日、東京都杉並区で日本で初めて「光化学スモッグ」が発生しました。当時の東京立正中学校と高等学校では、体育授業中にグランドで生徒が突然、目の痛みや頭痛などを訴えて倒れて、計43人の生徒が病院へ運ばれれています。また、東京全体的にたくさん人が目やのどの痛みを訴えたといわれています。

光化学スモッグ

「光化学スモッグ」とは、「光化学オキシダント」の濃度上昇により、大気が全体的にかすんでいる現象のことです。自動車のマフラーや工場の煙突から排出される排気ガスなどに含まれる「窒素酸化物」、塗料や接着剤などに含まれる「揮発性有機化合物」が、太陽から受ける紫外線の影響で化学反応を起こすと「光化学オキシダント」という物質になります。そして、この物質の濃度が高くなれば、遠くの山やビルがかすんで見えるようになります。この現象が光化学スモッグといわれるものです。ちなみに、このスモッグという言葉は、イギリスで作られた、煙(smoke)と霧(fog)合わせた言葉だそうです。

人体の影響は?

この光化学オキシダントは、外気に直接触れるために目や呼吸器の影響を受けやすいそうです。その影響受けたときの主な症状は、目の痛みや咳、気分の悪さなどがあるようです。また、まれに重症化した時は「呼吸困難や手足のしびれ」「めまいや頭痛」「発熱や嘔吐」「意識障害」などの症状を起こすことがあるそうです。影響を受ける症状は個人差があるそうで、他の人は無症状でも一部の人に症状がみられることもあるようです。幼児など小さい子供、持病などがある人、そしてアレルギー性の結膜炎や喘息などの方は、特に注意が必要だそうです。

症状が現れたときの対処法

この「光化学スモッグ」によって症状が出た場合は、外での激しい運動は直ちに止めて、目を洗ったり十分にうがいなどをしっかりとし、屋内では窓やカーテンを閉めてゆっくりと休むことを勧められています。しかし、それでも症状が回復しなければ、できるだけ早めに病院に行き、医師の診察を受けてください。この光化学オキシダント、マスクなどでは予防できないそうで、TVやネットなどで光化学スモッグ注意報が発令されたら、外気に触れないよう屋内で過ごすことがベストです。

PM2.5「微小粒子状物質」

PM2.5「微小粒子状物質」とは、大気中に浮遊する粒子状物質の中で、粒径2.5 マイクロメートル、1マイクロメートルは1ミリメートルの千分の1)以下の粒子のことです。したがって、PM2.5はそれだけ小さな粒子なので、そこで呼吸をすると肺の奥深くまで入っていき、人の健康に悪影響を及ぼすことして注意喚起されています。現在では、この「PM2.5」は時期によっては、九州北部を中心とされる地域で黄砂(毎年3月から5月にかけ、中国大陸西部から飛来する砂のこと)に交じって浮遊して来て、大気が黄色っぽく霞むことがあります。当然、黄砂と共に中国の光化学スモッグを運んでくるために健康への悪影響があるそうです。これは、緊急を要する世界規模の環境汚染対策が望まれます。

駅弁記念日

7月16日は駅弁記念日です

駅弁記念日

1885年7月16日、日本鉄道東北線の宇都宮駅が開業し、日本初の駅弁が発売されました。そしてこの日は、大宮駅~宇都宮駅が開通した日でもあります。偶然、その駅近くにある旅館に宿泊していた日本鉄道の重役が、旅館白木屋の経営者の斎藤嘉平に駅弁を勧めて、その時から販売を始めています。このことから宇都宮駅は「駅弁発祥の地」とされているようです。

駅弁の中身と値段は?

その弁当は、黒ゴマをまぶした梅干入りの握り飯2個とたくあん2切れを竹の皮に包んだもので、当時の値段は5銭でしたが、まだその時代は一般的に高め設定でした。その時代から132年経った現在では、3500~4千種類にまで増えて、その弁当を列車だけでなく家で楽しむ人もいるほどです。この身近な存在へと変化した駅弁は、最初の駅弁のイメージ「素朴すぎるメニュー」から、「戦争」や「出稼ぎ」、「新幹線」によって変化していきました。

最初の幕の内弁当

最初の幕の内弁当は、1889年に姫路駅で発売されたといわれています。その内容は、白米飯に「肉」「魚」「かまぼこ」「伊達巻」「きんとん」「漬け物」を経木の折りに詰めたものだったそうです。その後の1890年には、寿司弁当が、一ノ関~盛岡間が開通したときに発売されています。また、駅弁の車内販売は1935年から始まり、幕の内が当時の価格で30銭、寿司が20銭だったそうです。それから月日が経ち、1966年になると、各百貨店で開催されたイベント東京高島屋「お国自慢全国うまいもの有名駅弁大会」などが大当たりして駅弁ブームが始まっています。

京王百貨店の「元祖有名駅弁と全国うまいもの大会」

京王百貨店も1966年から「元祖有名駅弁と全国うまいもの大会」を毎年開催しています。そして、あまりの人気ぶりに来客数がフロアにあふれ、その後は出店ブースを一部減らして通路を広げ、広さ1500平方メートルの催事場スペースを、さらに1割拡大したそうです。2021年の現在も、この全国で有名な駅弁を集めた販売イベントは、各店舗で盛り上がりを見せています。

自宅で楽しめる駅弁

このコロナ禍で政府の要請による外食制限などの自粛生活では、弁当を家で楽しむことがメインとなり、むしろ地域の名産を売り込む絶好のチャンスと見ているようで、駅弁本来の目的をすっかり忘れられているように思えます。しかし、個人的には美味しいものであれば、地域の興味が沸いてくるなど、旅行気分を味わえるのは最高です。

ペリー上陸記念日

7月13日はペリー上陸記念日です

ペリー上陸記念日

1853年7月14日(旧暦6年6月9日)、アメリカの黒船艦隊4隻が江戸湾の浦賀沖に現れ、ペリー提督が久里浜に上陸し、将軍への親書を渡しました。その時の江戸は鎖国、当然異国からの黒い船に街は大混乱です。その時の様子が、蒸気船をお茶の銘柄・上喜撰にかけて、「太平のねむりをさます上喜撰たった四はいで夜もねられず」と狂歌に詠まれるほどだったといわれています。

2度のペリー来航で鎖国が終わった!

狙われた幕府、黒船の襲来!

ペリー(マシュー・ペリー提督)は、1年後に新書の返事を聞くために再び来航すると告げて帰国します。そこで幕府は、翌年のペリー再来に備えて品川沖に6基の砲台(台場)を完成させましたが、翌年の1854年に来航したペリーとの間で「日米和親条約」を結び、200年続いた鎖国がこの時、ついに終わりを告げました。この「日米和親条約」を結んだことをきっかけとし、下田と箱館を開港、8月にはイギリスと日英和親条約、12月にはロシア帝国と日露和親条約がそれぞれ締結され、鎖国状態は完全に崩壊することとなります。また、このペリーによる「日米和親条約」が結ばれるまでに「ロシア帝国」「イギリス」「フランス」「アメリカ合衆国」などの艦船が日本に来航し、開国を求める交渉を行っていますが、その多くは拒否したそうです。

マシュー・ペリー提督

ペリー来航と日米和親条約

ペリー提督は、1794年4月10日にロードアイランド州のニューポートにてアメリカ海軍私掠船長の「クリストファー・レイモンド・ペリー」と、妻セーラの3男として生まれました。その後に彼は、アメリカ海軍の軍人となり、鎖国状態の日本に来航して開国を要求したことで知られていますが、日本の文書には「ペルリ」と記載されていたそうです。ちなみに彼の正式名は、「マシュー・カルブレイス・ペリー」であり、兄の「オリバー・ハザード・ペリー」は英雄として知られています。

日本の開国までの経緯

ペリーは、1851年1月に日本を遠征する独自の基本計画を海軍長官「ウィリアム・アレクサンダー・グラハム」に提出します。そしてペリーは、シーボルトの著書「日本」など、40冊ほどの日本を紹介した本を読み、どうすれば開港できるかを考えていたそうです。しかし、アメリカ大統領「フィルモア」はその当時、東インド艦隊司令官の代将である「ジョン・オーリック」に日本の開国と通商関係を結ぶ任務を与えていたそうです。それが1851年6月8日に蒸気フリゲート「サスケハナ」(『サスケハナ』は、アメリカ原住民の言葉で”広く深い川”を意味し、この船はその名がつけられた最初の戦艦)は東インド艦隊の旗艦としてアジアに向けて出発したが、「ジョン・オーリック」と「サスケハナ」艦長インマン海軍大佐とのトラブルで、広東に到着すると病と言う事で解任されます。そこで1852年2月、代わりに「マシュー・ペリー」が東インド艦隊の代将に就任します。

「ジョン・オーリック」の代わりにペリーが出航

そして「ペリー」は、ミラード・フィルモア大統領の親書を持ち、日本に開国を要求するためにバージニア州ハンプトン・ローズから蒸気フリゲート艦ミシシッピ号に乗船して、1852年11月24日に出航します。その後、大西洋を渡り、マデイラ諸島⇒ケープタウン⇒モーリシャス⇒セイロン⇒シンガポール⇒マカオから香港へと航海します。そして、1853年5月4日には上海に到着し、「サスケハナ」などの艦隊と合流します。

まずは沖縄琉球に向う

琉球王国、首里城

その後5月17日には、「サスケハナ」を旗艦に、まずは沖縄琉球に向かいます。その琉球には5月26日に到着、那覇沖に停泊すると、ペリーは首里城への訪問を打診しますが、琉球王国がこれを拒否します。すると、ペルーらは、武装した海兵隊を率いて首里城へと向かっていきます。この時、琉球王国は「兵と武器の持ち込みは拒否するが、会見には応じる」として、武将解除したペリーと士官らが入城します。そこで琉球王国側は、大統領親書を手渡すと酒と料理をもてなし、ペリーは感謝して琉球の高官を旗艦「サスケハナ」に招待し、料理を振る舞われたといわれています。

黒船来航はここから始まる

ペリーはその後、艦隊の一部を那覇に残し、4隻の軍艦を引き連れ小笠原諸島を探検します。そして、6月23日に一度琉球へ戻りますが、やはり一部の艦隊を残したまま、7月2日に日本の浦賀へ向けて出航しました。そして4隻のペリー艦隊は1853年6月3日に浦賀に入港します。ここから、あの日本史で必ず学ぶほど、誰もが知っている黒船来航が始まります。この事件があったからこそ、世界中の素晴らしい品々が次々と持ち込まれ、それを日本独自の改良を重ね、より良いものを作ろうという努力が始まったのでしょう。こうした経緯が、我々にとって誇らしい国へと変えてくれた原点なのだと思っています。

人間ドックの日

7月12日は人間ドックの日です

人間ドックの日

1954年7月12日、国立東京第一病院(現在の国立国際医療研究センター)で初めて「人間ドック」が行われました。これは、少しでも多くの人に「人間ドック」の受診を促し、病気の早期発見に繋げて国民の健康増進に役立つようにすることが目的でした。そこで、学術大会の開催や学会誌の発刊などを行う日本人間ドック学会(公益社団法人)がこの日を「人間ドックの日」として制定しました。

人間ドックと健診の違い

一般的な健診は、検査結果が後日送付されるだけですが、認定施設での人間ドックは医師からその日に結果説明があります。また、健診結果やライフスタイルなど状況に応じた専門スタッフによる個別の生活改善や治療のアドバイスを受けられます。そうすることで、健康への意識が向いている検査結果を見て感じたその日から、生活習慣改善への第一歩に繋げることになるとみています。また、精密検査が必要になり、いざ受診するときは率先して検査を勧めてくれて、「受診後のフォロー」もあり、「受けて終わり」ではない継続した健康管理が行えるようです。

人間ドックの歴史

人間ドックは、日本で80年以上前に産声をあげ、これを最初に組織的に行ったのが1954年7月12日の国立東京第一病院(現在の国立国際医療研究センター)だといわれています。その後は、聖路加国際病院など、全国の病院や施設でこの「人間ドック」が創設されています。ちなみに「ドック」は、船を点検や修理するためのドック(dock)に由来するといわれていて、船が長い航海を終えた後に点検や修理のためにドックに入るように、人間も定期的にドックに入る必要があるという考え方から生まれたものだと思われます。

健康のために定期的な検査を

企業が労働者に行う健診は、労働安全衛生法で義務付けられているようで、費用については企業が負担することになっているそうです。ですが、この健診では病気のおおまかなチェックがメインとなっています。そのためにも特に50代を超えたら人間ドックを積極的に申込み、仕事に影響を与えるリスクを減らすためにも、そして健康になって長生きするためにも短時間で詳しい検査等を受けて病気の早期発見や早期治療、アドバイスを受けてから今後の「健康食育」が行えます。

ジェットコースターの日

7月9日はジェットコースターの日です

ジェットコースターの日

1955年7月9日、日本初の本格的な「ジェットコースター」が設置されました。その場所は、当時の「後楽園ゆうえんち」が開園した時です。また、このジェットコースターの全長が1500mあり、その最高時速55kmでした。その時に名前がジェット機にちなみ、「ジェットコースター」という名称が付けられました。その後人気が出て、一般的な名称がそのまま「ジェットコースター」となったそうです。そして「後楽園ゆうえんち」は、2003年4月17日に遊園地全体が入場無料のフリーゲート化になり、現在の「東京ドームシティアトラクションズ」という名称に変更されています。

ジェットコースターの歴史

コースターの由来には諸説あり、一つは16~17世紀のロシアで「氷の滑り台からソリで滑り下りる」もの。もう一つは、1870年代のアメリカで行われていた鉱山の廃坑で、石炭運搬用のトロッコに乗って坑内を走り下りるという遊びがきっかけとされています。またL.A.トンプソンが1874年、ニューヨーク郊外にコニーアイランドに設置された「スイッチバック・グラビティ・プレジャー・レールウェイ」などは、現在のローラーコースターの原型といわれているそうです。そしてそのコースターの乗員は10名で、そのコースは高さは9mで全長が137m。また、その時の最高スピードは時速10kmだったそうで、現在のジェットコースターに比べるとまだまだのスピードでしたが、ここから何倍もスピードが速くなり、安全性などと共に開発がどんどん加速していきます。

日本のジェットコースター

現在では、「ローラーコースター」をはじめ、「インバーテッドコースター」(吊り下げられ、足元がフリーの状態で走行するコースター)など、様々なタイプのものが存在しています。その中で特別人気があるジェットコースターをいくつか紹介します。

サンダードルフィン (東京ドームシティ)

サンダードルフィン (東京ドームシティ)

サンダードルフィンは、ビルに囲まれた東京の中心地の東京ドームや後楽園でおなじみの水道橋エリア、東京ドームシティアトラクションズにある国内2位の最後部高度をもつ絶叫コースターです。そこには、世界初のセンターレス観覧車やビッグ・オーの輪の中など、東京ならではのビル群を縫うようなスリル感は迫力抜群です。また夜になると、東京の夜景を眺めながら乗れる時間帯は特に人気のようです。

ピレネー(志摩スペイン村)

ピレネー(志摩スペイン村)

志摩スペイン村のピレネーは、世界最大級の「インバーテッドコースター」(吊り下げられ、足元がフリーの状態で走行するコースター)です。走行時間が長く、様々なひねり回転があることが最大の特徴であるピレネー山脈をモチーフにしたインバーテッドコースター。注目すべきは吊り下げ式ライドであり、足の踏ん張りがきかないために、されるがままの状態が想像を超えるスリルに!

ド・ドドンパ(富士急ハイランド)

おうちで「富士急のド・ドドンパ」

「ド・ドドンパ」は、同じ富士急ハイランドの4大コースターの内の一つであり、高飛車と並ぶドドンパ。そのド・ドドンパが進化したのがこちらです。こちらは、「世界一の加速力」を追求して最終的にたどり着いたマシーン。このコースターの最大の恐怖ポイントは、加速力をそのまま活かした世界最大級のループ状コース。他にも視覚で楽しめるポイントがあったりなどパフォーマンスもパワーアップしてるようです。

正直、こういった乗り物は苦手ですが・・・

夜のジェットコースター

御覧の通り、マニアにはたまらない絶叫コースターが他の地域にも、まだまだたくさんあります。私は正直、こういった壊れたら悲惨なことになるような絶叫マシーンは苦手です。しかし、現在の日本のコースターはこまめな点検など安全性が保障され、高さがあるため周りの景色が楽しめるのが魅力の一つでもあるようです。ちなみに私は、観覧車などで優雅な気分で静かに各地域の絶景を見ます。